ソチ五輪の日本選手

山極壽一 (京都大学教授 / PWSプログラム分担者)
2014年03月09日

◎世界に挑む心育てるには

ソチ五輪での日本人の活躍はめざましかった。深夜、テレビの前にくぎ付けになった人は多かっただろうと思う。8個のメダル獲得は長野五輪につぐ快挙だそうだ。メダルを獲得した選手たちの誇りに満ちた態度や歓喜にむせぶ表情はとてもほほ笑ましかった。

しかし、それにもまして今度の五輪では、メダルや入賞を逃した選手たちの凜(りん)とした態度が心に残った。自分を応援してくれた人々の期待にこたえられなかった悔しさ、自分の力を出し切れなかった残念な思いは選手たちの顔を一瞬曇らせた。だが、次の瞬間には例外なく、敗者たちは晴れ晴れとした顔で全力を尽くして戦った自分を振り返っていた。そのいさぎよさを私はとても美しいと思った。

今回は10代の若い選手も多かったのに、報道陣に対する彼らの言葉を聞いていると、まるで老成した大人のように思えるほどだった。自分を支え、応援してくれた人々への感謝や、他国の選手への尊敬の念を忘れない。勝ってもむやみにはしゃいだりせず、いっしょに戦った仲間や敗者への心遣いを欠かさない。いったいいつ、彼らはこんな立派な態度を身につけたのだろう。そのための特別な訓練を受けたのだろうかとさえ思えてくる。

実は、私が長年調査をしているゴリラも急に立派な態度を示し出すときがある。ゴリラのオスは思春期になると生まれ育った群れを離れ、しばらく独りで暮らした後、他の群れからメスを誘い出して自分の群れをつくる。独りのときは落ち着きがなく、自信がなさそうに見えることもあるが、メスを得ると途端に堂々とした態度を示すようになる。やがて子どもが生まれ、メスの数が増えると、泰然自若とした風格を身につける。他のオスに会うと肩を怒らせ、背中を反らせて堂々と歩き、二足で立って胸をたたく。メスや子どもが悲鳴をあげればすっ飛んで行って敵に立ち向かう。リーダーオスの一挙手一投足には、常に群れの仲間の視線が注がれており、オスはそれを意識して行動しているように見える。

おそらく、人間でも周囲から注目され、期待されていることが行動に大きな影響を与えるのだと思う。五輪選手の場合、その視線の数は半端ではない。日本国民すべての期待が集中しているのだから、きっと大きな重圧がかかっているに違いない。だからこそ、選手たちは自分の態度や言葉に人々の期待を乗せるのだ。自分の体が自分のものではないことを感じるからこそ、選手たちはさまざまな立場に立って戦いを振り返ることができるのだろう。

人間がゴリラと違うのは、周囲の期待を背負って戦った自分を、また自分のもとに取り戻すことができることである。苦しい練習を経て栄光をつかもうとしたのは他ならぬ自分の意志であり、自分の世界への挑戦であったことを思い出すのだ。それが果たせても果たせなくても、周囲がたたえようが非難しようが、力の限り戦った自分をたたえたいと思う。そして、同じように世界の舞台に登場した人々、わずかの差で出場を逃した人々に同志としてのいたわりの気持ちを抱く。その能力があるからこそ、人間はスポーツという勝負の世界に興じることができる。スポーツの勝敗は人々に敵対心ではなく、融和と連帯の心を抱かせる。

考えてみれば、このスポーツの精神は芸術や学問など他の分野でも生きているのではないだろうか。人間は同じような志を持つ人々の間で自分を高めたいと思う強い欲求を持っている。でもその競争に勝つことだけが目的ではない。互いにせめぎ合い、高め合いながら、新しい記録や美や未知の発見にめぐりあうことが喜びにつながるからこそ、過去に置かれた限界を超えようとする。その偉業を互いにたたえ、支え合う気持ちがなければ、これらの挑戦は生まれてこない。

昨今、しきりにグローバル人材の育成を求める声を聞く。その最も効果的な方法は若者たちに世界の舞台を踏む機会を与えることだろう。会話力やマナーなど小手先の技術ではなく、世界で試す自分の目標をもち、それを果たすために多くの人々が支える環境を作ることが重要なのではないだろうか。自分を信じる心を磨き、人々の視線と期待が向けられれば、若者たちはきっと立派に世界に向かって羽ばたくに違いない。

この記事は,毎日新聞連載「時代の風」2014年03月09日掲載「ソチ五輪の日本選手・山極寿一」を、許可を得て転載したものです。