サル化する人間社会

山極壽一 (京都大学教授 / PWSプログラム分担者)
2014年08月03日

◎低下する共感や連帯

人間以外の動物にとって、生きることは食べることである。しかし、それを実現するには、いつ、どこで、何を、誰と、どうやって食べるか、という五つの課題を乗り越えねばならない。現代の科学技術と流通革命は、その多くを個人の自由になるように解決してきた。24時間営業のコンビニエンスストアや自動販売機。車や飛行機などの輸送手段や、インターネットを通じた通信手段。電子レンジやファストフードなどの調理や保存などの技術。これらは私たちに、いつでも、どこでも、どんなものでも、好きなように食べることを可能にした。

しかし、技術によっては変えられない課題もある。それは、誰と食べるか、ということだ。もちろん、移動手段の革新によって、遠くに住む知人や親族に会うことができるようになった。だが、誰と食卓を囲むかは、昔も今も個人の自由裁量によっては決められない。

古来、人間の食事は栄養の補給以外に、他者との関係の維持や調整という機能が付与されてきた。いやむしろ、いい関係を作るために食事の場や調度、食器、メニュー、調理法、服装からマナーにいたるまで、多様な技術が考案されてきたと言っても過言ではない。どの文化でも食事を社交の場として莫大(ばくだい)な時間と金を消費してきたのである。それは効率化とはむしろ逆行する特徴を持っている。

サルの食事は人間とは正反対である。群れで暮らすサルたちは、食べるときは分散して、なるべく仲間と顔を合わせないようにする。数や場所が限られている自然の食物を食べようとすると、どうしても仲間と鉢合わせしてけんかになる。だから、仲間がすでに占有している場所は避けて、別の場所で食物を探そうとするのだ。でも、あまり広く分散すると、肉食動物や猛禽(もうきん)類にねらわれて命を落とすおそれが生じる。仲間といれば外敵の発見効率が上がるし、自分がねらわれる確率が下がる。そこで、仲間と適当な距離を置いて食事をすることになる。

しかし、食物が限られていれば、仲間と出くわしてしまうことがある。そのときは、弱い方のサルが食物から手を引っ込め、強いサルに場所を譲る。サルたちは互いにどちらが強いか弱いかをよくわきまえていて、その序列に従って行動する。それに反するような行動をとると、周りのサルがよってたかってそれをとがめる。優劣の序列を守るように、勝者に味方するのである。強いサルは食物を独占し、他のサルにそれを分けることはない。サルの社会では、食物を囲んで仲良く食事をする光景は決して見られない。

けんかの種となるような食物を分け合い、仲良く向かい合って食べるなんて、サルから見たらとんでもない行為である。なぜこんなことに人間はわざわざ時間をかけるのだろうか。それは、相手とじっくり向かい合い、気持ちを通じ合わせながら信頼関係を築くためであると私は思う。相手と競合しそうな食物をあえて間に置き、けんかをせずに平和な関係であることを前提にして、食べる行為を同調させることが大切なのだ。同じ物をいっしょに食べることによって、ともに生きようとする実感がわいてくる。それが信頼する気持ち、共に歩もうとする気持ちを生み出すのだと思う。

ところが、前述した近年の技術はこの人間的な食事の時間を短縮させ、個食を増加させて社会関係の構築を妨げているように見える。自分の好きなものを、好きな時間と場所で、好きなように食べるには、むしろ相手がいない方がいい。そう考える人が増えているのではないだろうか。

でも、それは私たちがこれまで食事によって育ててきた共感能力や連帯能力を低下させる。個人の利益だけを追求する気持ちが強まり、仲間と同調し、仲間のために何かしてあげたいという心が弱くなる。勝ち負けが気になり、勝ち組に乗ろうとする傾向が強まって、自分に都合のいい仲間を求めるようになる。つまり、現代の私たちはサルの社会に似た個人主義の閉鎖的な社会を作ろうとしているように見えるのだ。

昨年末に、和食がユネスコの無形文化遺産に登録された。今一度、日本文化の礎を見直し、和の食と心によって豊かな社会に至る道を模索すべきだと思う。

この記事は,毎日新聞連載「時代の風」2014年08月03日掲載「サル化する人間社会・山極寿一」を、許可を得て転載したものです。